受験勉強は本来パーソナルなもの

昔からものを習う、ということについては1人の先生に何人かの生徒がつく、という形式になっていました。

寺子屋もそうだし、藩校もそう。明治維新以降もそうです。当たり前ですが、先生が何人もの生徒を教えて方が効率が良い。だから戦後の予備校などというものは、とてつもない規模の教室になった。

1人の講師が教えている生徒が200人とか300人だったりしたわけですが、さすがにこれもどうかということで、だんだん1クラスの人数が減ってきました。

中学受験の場合は、100人クラスというのも昔はありましたが、今は概ね15人ぐらいになっているでしょう。しかし、そうなると先生がたくさん必要になる。そこで授業内容が先生によって異なるのではなく、全員が同じ授業をするようにパッケージ化されるようになりました。先生の個性で問題が変わったり、教え方がかわったりしない。昔は名物先生というのがいたのですが、そういう先生が減ったというか、そういう授業を許さなくなった。

でその代わり、クラス分けをして子どもたちを競争させることにしたわけです。クラス分けは昔からあって、それが子どもよりも親の方に利く。自分の子をより上のクラスへ、ということで切磋琢磨が始まれば、上位の子はそれなりに勉強してくれるから、合格実績は出る。その上で、そういう子どもたちに追いつけ、追い越せで多くの子どもたちが入ってくれば。塾にとっては好循環、ということになったわけです。

しかし、本来受験勉強はパーソナルなものです。

志望校も違うし、状況も違う。だからみんな自分で勉強していた。大学受験用の塾が出てきたのは、そんなに古くはないのです。みんな自分でやっていたからでしょう。

で、授業がパッケージ化されたり、教材がいろいろ出てきた以上、個別に勉強した方が効率が良い、というのは当然です。大学受験で指導者がいないから、みんな予備校だ、塾だと通っていたが、教えてくれる人がちゃんといるのであれば、別に集合授業である必要はないのです。

ということに、私も最近気が付いた。つまり、そのくらい塾や集合授業をやるのが当たり前だ、という感覚が強いからです。

しかし、今はいろいろな技術が出来ているので、その当たり前は当たり前ではなくなるかもしれません。コロナ禍で「なんだ、できるじゃないか」ということは結構ありましたから。